Se connecter「ママ、このおじさん知ってるの?」
陽向の問いかけに、紗良はすぐには答えられなかった。
知らないと言ってしまえば簡単だったかもしれない。五歳の子どもなら、その場では納得してくれただろう。しかし、目の前にいる玲央を知らない人として扱うには、紗良の身体は彼を覚えすぎていた。
立っているときにわずかに右肩を引く癖も、考え込むときには唇をほとんど動かさずに息を吐くことも、苛立っているほど声が静かになることも知っている。眠れない夜には寝室ではなくリビングのソファへ行き、ブラックコーヒーを飲みながら仕事をしていたことまで、望んでもいないのに記憶の底から蘇ってくる。
忘れたかった男というのは、どうしてこんなにも細かいところまで覚えているのだろう。
「……昔、少しだけ知っていた人よ」
紗良はようやくそう答えた。
少しだけ。
自分で言っておきながら、その言葉はずいぶん滑稽だった。
一緒に暮らした。
同じ食卓についた。
同じベッドで眠った。
喧嘩もしたし、笑ったこともあった。彼の妻として人前に立ち、神崎家の親族に頭を下げ、夫が深夜に帰れば夕食を温め直した。最後には、彼との子どもを身ごもったまま離婚届を残して逃げた。
それを「少しだけ知っていた」と呼ぶなら、世の中の大半の人間関係は知人ですらなくなってしまう。
陽向は母親の言葉を疑うことなく、「ふうん」と頷いた。
「じゃあ、お母さんの前の会社の人?」
「そういうわけじゃないの。大人にはいろいろあるのよ」
「またそれだ」
「何が?」
「お母さん、説明したくないとき、すぐ『大人にはいろいろある』って言う」
紗良は一瞬、本気で返事に困った。
玲央の後ろにいた若い男性社員が、口元を押さえて横を向く。受付の女性まで俯いた。
「……陽向。そういうことは、今ここで言わなくてもいいの」
「でも本当だよ」
「本当でも言わなくていいことが世の中にはあるの」
「それも大人?」
「それは大人じゃなくても覚えてください」
いつもなら笑える親子のやり取りなのに、今日は喉がひどく乾いていた。
その間、玲央は一言も口を挟まなかった。
ただ紗良を見ていた。
五年前、最後に見たときとは違う目だった。
あの日の玲央がどんな顔をしていたのか、紗良は知らない。離婚届を置いて家を出たとき、彼は家にはいなかったのだから。
だから今、五年ぶりに真正面から向けられたその視線に、何を読み取ればいいのか分からなかった。
怒っているのだろうか。
責めたいのだろうか。
それとも、突然消えた元妻が偶然目の前に現れたことに、単純に驚いているだけなのか。
どれであっても、確かめるつもりはなかった。
「それでは、神崎社長。私は仕事に戻りますので」
紗良は意識して声を整えた。
仕事の相手へ向ける、礼儀正しく、しかし距離のある声音だった。
「陽向。もう少しだけ待っていてね。終わったらすぐ来るから」
「うん。頑張って」
「ありがとう」
紗良は息子の頭を一度撫でると、その場を離れようとした。
「待て」
背中へ飛んできた声に、足が止まる。
止まりたくなかった。
それでも、ここは仕事場だ。発注側企業の社長に呼び止められて無視できるほど、紗良の会社は大きくない。
振り返ると、玲央が数歩こちらへ近づいてきた。
「今、俺を何と呼んだ?」
「……神崎社長、と」
「それは聞こえていた」
「では、なぜお聞きになるんですか」
「君が俺をそんなふうに呼ぶのを初めて聞いたからだ」
紗良は危うく笑いそうになった。
もちろん楽しいからではない。
五年も離れていた元夫に、いったい何と呼べというのだろう。
「今のあなたは、今回の案件の発注元企業の社長です。私は最終プレゼンに参加している会社の代表です。それ以外に、ここで使う呼び方がありますか?」
「紗良」
「勤務中ですので、名前で呼ぶのはやめていただけますか」
玲央の表情がわずかに強張った。
後ろにいる社員たちの空気まで変わったのが分かった。
おそらく彼らは、神崎玲央にこんな物言いをする人間をほとんど見たことがないのだろう。
以前の紗良だって、こんなふうに言えなかった。
玲央が忙しければ我慢した。
美佐子に嫌味を言われれば笑って流した。
寂しくても、「仕事なら仕方ない」と自分へ言い聞かせた。
何かひとつ不満を伝えるたび、自分が物分かりの悪い妻になるような気がしていた。
だが、あれから五年経った。
一人で子どもを産み、一人で育て、家賃を払い、保育園へ頭を下げ、仕事先へ謝り、社員の給料を守るために眠れない夜も過ごした。
もう、相手の機嫌を損ねることを恐れて自分の言葉を飲み込むだけの女ではない。
「少し話がしたい」
「私はありません」
「俺にはある」
「それはあなたの都合でしょう」
少し強く言い過ぎたかもしれない。
そう思った直後、自分の中にまだ玲央の機嫌を気にする癖が残っていることに気づき、紗良は腹立たしくなった。
玲央は怒鳴らなかった。
昔から、声を荒らげる男ではない。
むしろ腹を立てるほど静かになる。
「五年前、離婚届だけ置いて突然いなくなった人間を目の前にして、何も聞くなというほうが無理だと思わないか」
「五年前の話なら、今ここですることではありません」
「では、いつならできる?」
「するつもりはありません」
「君がそう決めれば、俺は従わなければならないのか」
その言い方に、紗良の胸の奥で古い傷が動いた。
「そういうところ、変わっていないんですね」
「何?」
「自分が話したいなら相手も話すべき、自分が説明したいなら相手は聞くべき。昔からあなたは、そうやって相手にも自分と同じ速度で答えを出させようとするでしょう」
「そんなつもりで言ったわけじゃない」
「あなたがどういうつもりだったかと、私がどう受け取ったかは別の話です」
玲央の口が閉じた。
その瞬間、紗良は言いすぎたと感じた。
ここは自宅でも、五年前の夫婦喧嘩の続きでもない。仕事先のロビーであり、周囲には社員もいる。
何より陽向がいる。
息子にこんなところを見せたいわけではなかった。
紗良は一度息を整えてから、声を落とした。
「申し訳ありません。仕事中にする話ではありませんでした。ただ、今日の私は会社を代表してここへ来ています。あなたも同じでしょう。私たちの個人的な事情を、この案件へ持ち込むべきではないと思います」
それだけは、玲央も否定しなかった。
数秒の沈黙のあと、彼は後ろに立っていた男性へ顔を向けた。
「宮坂」
「はい」
「最終プレゼンの開始は?」
「次の候補企業が十分後です。その後が高瀬さんの会社です」
「予定通り進めろ。選考条件も変更するな」
「承知しました」
そこまで言ってから、玲央は紗良へ向き直った。
「仕事に個人的な事情は持ち込まない。約束する」
「……ありがとうございます」
「ただし、それと五年前のことを何も聞かないのは別だ」
紗良は返事をしなかった。
玲央もそれ以上、ここでは追及しなかった。
そのことに少しだけ安堵し、それ以上に腹が立った。
昔の玲央なら、納得するまで話を続けただろう。それが今日は引いた。
そんな小さな違いを見つけてしまった自分にも腹が立つ。
「じゃあ、お母さん、もう行くの?」
陽向の声に、張りつめていた空気がほどけた。
「うん。ごめんね、待たせちゃった」
「このおじさんと喧嘩してた?」
「してません」
紗良と玲央の声が、ほぼ同時に重なった。
陽向が目を丸くした。
「同じこと言った」
「偶然よ」
紗良は即答した。
玲央は何も言わなかったが、横顔が一瞬だけ昔に戻ったように見えた。
結婚していた頃も、くだらない場面で二人の言葉が重なることがあった。買い物先で同じものを指さしたときや、テレビを見ながら同じ感想を漏らしたとき、紗良が笑うと玲央は少し困ったような顔をした。
そんな記憶は、今さら必要ない。
「陽向、本当にもう少しだけお願いね」
「大丈夫。僕、このおじさんと恐竜の話してたから」
「神崎社長はお仕事があるの」
「そうなの?」
陽向は玲央を見上げた。
「社長さんって大変なんだね。お母さんもいつも忙しい」
「……そうだな」
玲央の答え方が妙に重かった。
紗良はそれ以上聞かず、プレゼンルームへ戻った。
◇
「高瀬さん、大丈夫ですか?」
資料を抱えた社員の村瀬奈々が、小声で尋ねてきた。
二十八歳の奈々は、紗良が会社を立ち上げて二年目から働いている。仕事は速いし口も堅いが、心配事が顔に出やすい。
「何が?」
「何がって……さっきの方、神崎グローバルの神崎玲央社長ですよね。高瀬さんと知り合いだったんですか?」
「昔、少しね」
また同じ言葉を使ってしまった。
奈々は明らかに何か聞きたそうだったが、紗良の顔を見て踏みとどまった。
「そうですか。じゃあ今は、それよりプレゼンですね」
「助かる」
「でも、終わったらコーヒーくらい奢ってください。私、すごく気になってるのを我慢してるんで」
「あなた、そういうところ正直よね」
「小さい会社は社内の風通しが大事ですから」
「便利な言葉にしないで」
少し笑えた。
それだけで呼吸が戻ってくる。
自分にはもう、五年前とは違う場所がある。
玲央の妻でなくても、自分を必要としてくれる人がいる。陽向の母親としてだけでもない。高瀬紗良という一人の人間として築いてきた仕事がある。
それを思えば、逃げる必要はない。
「行こう。ここまで準備してきたんだから、ちゃんと仕事を取るよ」
「はい。社員六人の冬のボーナスが懸かってますから」
「陽向から聞いた?」
「聞かなくても社長の顔に書いてあります」
「みんな遠慮がなくなってきたなあ」
資料を受け取りながら苦笑し、紗良はプレゼンルームの前へ向かった。
ところが扉の前で、担当者から思いがけないことを告げられた。
「高瀬様、ひとつ変更がございます」
「変更ですか?」
「はい。神崎社長も、今回の最終プレゼンへ同席されることになりました」
紗良の指が資料の端で止まった。
「……これまでの候補企業のプレゼンにも?」
「いえ。本日は別件の会議がございましたので、本来は選考委員へ一任される予定でした。ただ、先ほど急遽予定を変更されまして」
つまり。
自分のプレゼンだけを見るということだ。
奈々が隣でひどく気まずそうな顔をしている。
「高瀬さん、もし体調が――」
「大丈夫」
紗良は即座に答えた。
ここで辞退すれば、それこそ玲央の存在に自分の人生を左右されたことになる。
五年前には逃げた。
あのときは、それ以外に自分を守る方法が分からなかった。
けれど今日は違う。
「予定通りやります」
担当者へ告げ、紗良は扉が開くのを待った。
会議室は横長で、奥には大型スクリーンが設置されている。選考委員たちが並ぶ中央、その一番端に玲央が座っていた。
五年前、自宅のダイニングで向かい合っていた男と同じ人間だとは思えない。
いや、違うのは彼ではなく、自分のほうなのかもしれない。
紗良はスクリーンの前へ立った。
「株式会社SARAH DESIGN代表、高瀬紗良です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
きちんと頭を下げる。
顔を上げると、玲央と目が合った。
今度は逃げなかった。
「それでは、弊社からリゾート施設全体のリブランディング案をご説明いたします」
プレゼンが始まった。
話し始めれば、不思議なほど仕事へ集中できた。
今回の施設が抱えている問題は、個々のホテルやレストランの品質ではない。施設全体として「ここへ来る理由」が弱いことだった。高級感だけを前面へ出すのではなく、その土地で過ごす時間そのものをブランド化する。そのためのロゴ、客室備品、食品パッケージ、ウェブサイト、従業員の接客ツールまで一貫したデザインへ作り直す。
紗良は何度も現地へ足を運び、観光客だけでなく地元の店主や農家にも話を聞いた。
大手広告会社ほど派手な映像は作れない。
その代わり、自分たちは実際に暮らす人間の言葉を拾った。
「施設の価値を新しく作るというより、すでにそこにある価値を、訪れる人へ伝わる形へ翻訳する。その役割を弊社が担いたいと考えています」
説明を終えると、選考委員からいくつもの質問が出た。
予算。
納期。
海外客への対応。
繁忙期の運用体制。
紗良は一つずつ答えた。
やがて質問が途切れる。
最後まで何も言わなかった玲央が、手元の資料を閉じた。
「一つ聞いても?」
「はい」
夫だった頃とはまるで違う、企業経営者同士の会話だった。
「この案では、短期的な集客効果よりブランドの継続性を優先している。その場合、初年度の数字が他社案より弱く出る可能性があると思うが、どう考えている?」
意地の悪い質問ではなかった。
むしろ、企画をきちんと読んだからこそ出る問いだった。
「おっしゃる通りです」
紗良は正直に認めた。
「弊社案は、開業直後だけ大きな数字を作る方法ではありません。そのため初年度の広告効果のみを比較すれば、ほかの提案に劣る可能性もあります。ただし、この地域へ再び来たいと思う理由を施設内だけで完結させず、周辺地域まで含めて作ることで、二年目以降の再訪率を高められると考えています」
「その根拠は?」
玲央がさらに尋ねる。
紗良は準備していた補足資料をスクリーンへ映した。
「弊社が三年前に担当した温泉街の事例です。当初の認知率は大きく変わりませんでしたが、二年目以降、宿泊客の再訪率と地域商品の購入率が伸びています。規模は今回とは異なりますので単純比較はできませんが、短期広告より滞在体験を設計するほうが、中長期的なブランド価値につながると判断しています」
玲央は資料を見たあと、軽く頷いた。
「分かった。以上です」
ただそれだけだった。
個人的な感情で困らせることも、無理に優遇することもない。
そこに少しだけ安心した自分を、紗良は認めたくなかった。
「ありがとうございました」
最後までプレゼンを終え、会議室を出た瞬間、奈々が大きく息を吐いた。
「死ぬかと思いました」
「私の台詞なんだけど」
「社長、よく普通に話せましたね。私なんて神崎社長に質問された瞬間、自分が答えるわけでもないのに頭の中が真っ白になりました」
「仕事だからね」
「……高瀬さん、本当に昔『少し知ってた』だけなんですか?」
「奈々」
「はい、今は聞きません」
奈々は両手を上げた。
紗良は苦笑しながら、プレゼンルームから少し離れたところにある待機スペースへ戻った。
まず陽向を迎えに行かなければならない。
そして、この建物を出る。
結果は後日連絡が来る。今日の仕事は終わった。
そう思ったところで、背後から声がした。
「高瀬さん」
知らない呼び方だった。
紗良が振り返る。
そこに玲央が立っていた。
先ほどまでと同じスーツ姿で、周囲にはもう社員はいない。
「何でしょう、神崎社長」
玲央はわずかに目を細めた。
「その呼び方、本気で続けるつもりか」
「仕事上のお付き合いが続くなら」
「仕事上の付き合いだけで終わらせるつもりはない」
胸が強く打った。
紗良は顔には出さなかった。
「私は終わらせるつもりです」
「五年前も、君一人でそう決めた」
責める声音ではなかった。
それが逆に厄介だった。
「離婚届は受理されたでしょう」
「ああ。君がいなくなって三日後にな」
紗良の身体がわずかに固まった。
自分が提出したのではない。
署名した離婚届を置いて出た。それを玲央がどうしたのか、あの頃は確認する余裕もなかった。
「なら、もう夫婦ではありません」
「分かっている」
「でしたら――」
「それでも、君が五年間どこで、どうしていたのかくらい聞く権利が俺にはあると思っていた」
「権利」
その言葉を聞いた瞬間、紗良の声から温度が消えた。
「私がどこで暮らして、何をしていたかを知る権利が、今のあなたにあるんですか?」
玲央は答えなかった。
紗良は自分でも驚くほど静かに続けた。
「五年前ならあったかもしれません。少なくとも私は、そう思っていました。どこへ行ったのか、今日は何をしていたのか、何を考えているのか。夫婦なら知ろうとするものだって。でもあなたは忙しかった。私は、あなたに話すほどのことでもないと思われていた」
「違う」
「今は、その違うという話を聞くつもりはありません」
「紗良」
「高瀬です」
玲央の言葉が止まった。
「私は今、高瀬紗良です」
自分の名字を口にすると、不思議なほど落ち着いた。
五年前は、神崎紗良だった。
あの名字を名乗るたび、玲央の妻として認めてもらわなければならないような気がしていた。
今の名字は、自分で取り戻したものだ。
「あなたが知っている神崎紗良は、もういません」
そこまで言ってから、紗良は玲央の横を通り過ぎようとした。
すれ違う瞬間、低い声が落ちてきた。
「俺は、そうは思えない」
立ち止まりかけたが、紗良は歩いた。
「五年前も今も、君は怒ると左手で右の指輪を触る」
足が止まった。
反射的に右手を見る。
もちろん、薬指に指輪などない。
それなのに左手の親指が、無意識に右の薬指の付け根を撫でていた。
昔、結婚指輪があった場所を。
紗良は慌てて手を下ろした。
「……だから何ですか」
「何でもない。ただ、俺も君のことを全部忘れたわけじゃないと言いたかった」
「忘れてください」
今度こそ振り返らなかった。
そのまま陽向のところまで歩く。
息子の顔を見れば落ち着けると思った。
「陽向、お待たせ。帰ろう」
「あ、お母さん。終わった?」
「終わったよ」
「成功した?」
「結果はまだ。だから今日のハンバーグは――」
「作ってよ。頑張ったんでしょ?」
当然のように言われ、紗良は少しだけ笑った。
「そうね。じゃあ作ろうか」
「チーズのせて」
「それは成功報酬じゃなかった?」
「お母さん頑張ったから特別」
「どうしてあなたが許可するの」
陽向の鞄を持ち上げようとしたところで、背後から近づく足音がした。
振り向かなくても誰なのか分かった。
紗良は陽向の小さな手を握る。
「帰ろう」
「うん」
しかし二人が歩き出すより早く、玲央がその近くまで来た。
陽向が嬉しそうに顔を上げる。
「あ、おじさん。お仕事終わったの?」
「ああ」
「僕たち今から帰るんだ。今日はハンバーグだよ」
「そうか」
「おじさんの家もハンバーグ?」
「いや。分からない」
「自分のご飯なのに?」
「だいたい用意されたものを食べるから」
「変なの」
「……俺も今、少しそう思った」
陽向が笑った。
その横で、紗良は早くこの場を離れたかった。
「陽向、行くよ」
「うん。じゃあね、おじさん」
小さな手が玲央へ振られる。
玲央も少し迷ってから手を上げた。
紗良はその光景を見ないように歩き出した。
エレベーターの扉が開く。
陽向と一緒に乗り込み、閉ボタンを押す。
扉が狭まっていく向こう側に、玲央が立っている。
五年前なら、あの人と離れることが怖かった。
今日は違う。
もう、自分には自分の人生がある。
そう言い聞かせていたのに、完全に閉じる直前、玲央の口が動いた。
「紗良」
声までは届かなかった。
それでも名前を呼ばれたのだと分かった。
扉が閉じる。
「お母さん」
「なに?」
「さっきのおじさん、変だったね」
心臓が跳ねた。
「どうして?」
「お母さんのこと、ずっと見てた」
「……昔の知り合いだから、びっくりしたんじゃない?」
「そうかな」
陽向は少し考え、恐竜の頭を撫でた。
「僕は、お母さんが知らない人にあんな顔しないと思うけど」
紗良は何も答えられなかった。
数字が一階へ向かって減っていく表示を見つめながら、陽向の手だけは離さないよう強く握った。
五年前に置いてきたはずの過去は、どうやら自分が思っていたほど遠くには行ってくれなかったらしい。
第27話 俺はまだ彼女を愛している 神崎玲央の月曜日は、朝七時半の役員会議から始まった。 海外事業部の収益見通し、来期の設備投資、傘下ホテルの稼働率。午前中だけで三つの会議を終え、昼食は執務室で資料を読みながら済ませる。 以前なら、それで何の問題もなかった。 むしろ効率がいいと思っていた。 ところが最近は、十二時を過ぎると妙なことを考える。 陽向は今ごろ何を食べているのだろう。 保育園の給食は、毎日献立が違うのだろうか。 ピーマンが出た日はどうしているのか。 嫌いだと言いながら、本当に一口も食べないのか。「社長」 宮坂の声で、玲央は手元の資料から顔を上げた。「何だ」「先ほどから同じページを三分ほどご覧になっています」「読んでいる」「そのページ、昨日も確認済みです」「もう一度読んでいる」「では内容を伺っても?」「……」 玲央は資料を閉じた。「嫌な秘書だな」「長く仕えておりますので」 宮坂は悪びれず、次の書類を机へ置いた。「十四時からの財務会議ですが、予定どおりです。それから、会長夫人から今週末の食事について、再度ご連絡がありました」 玲央の顔からわずかに表情が消える。「断ったはずだ」「先方のお嬢様との顔合わせではなく、今回は親子だけで食事をしたいとのことです」「母と?」「はい」「何か言っていたか」「電話では『最近、玲央の様子がおかしい』と」「ずいぶん曖昧だな」「具体的には
第26話 嫌いになれたら楽だった 月曜日の朝、紗良は目覚ましが鳴るより先に目を覚ました。 隣では陽向が布団を半分蹴飛ばし、枕から頭を落としかけた格好で眠っている。昨夜は公園から帰る電車の中でほとんど寝ていたくせに、帰宅すると急に元気を取り戻し、玲央から聞いた電車の話を思い出しては「あれは知ってた」「これは知らなかった」と延々報告していた。 父親と会った日。 その言葉だけを聞けば、もっと大きな事件になっていてもおかしくなかった。 ところが陽向にとっては、どうやら「玲央おじさんと電車を見た日」であり、「ココアを飲んだ日」であり、「少しだけパパっぽかった日」でもあるらしい。 子どもの受け止め方は、大人が恐れるほど劇的でも、単純でもない。 紗良は陽向へ毛布を掛け直し、静かに寝室を出た。 キッチンで湯を沸かしながら、昨日の玲央を思い出す。 アイスをねだった陽向へ、母親の判断を優先したこと。 知らない電車について、知ったふりをしなかったこと。 陽向から「まだパパか分からない」と言われても、傷ついた顔をしながら受け入れたこと。 そして別れ際。『次もちゃんと聞いてください』 自分は、そう言った。 陽向の話だけではない。 私の話も。「……何言ってるんだろ」 湯気の向こうで、自分へ呆れる。 五年前は話を聞いてほしかった。 今はもう別れた。 悠真との再婚も考えている。 それなのに今さら、玲央へ「私の話も聞いて」と言うなんて。 どこまで欲張りなのだろう。 五年前にもらえなかったものを、今の玲央へ求め始めている。 その事実に気づくと、胃のあたりが重くなった。
第25話 パパって、どんな人? 翌週の日曜日、陽向は朝から落ち着かなかった。 朝食を食べながら何度も時計を見て、まだ九時を過ぎたばかりなのに「もう行く?」と聞く。約束は午後一時だった。「まだ早いよ」「でも電車の公園、遠いじゃん」「電車で三十分くらい」「じゃあ十一時?」「早すぎる」「十二時?」「それでも早い」 陽向は不満そうにトーストをかじった。「玲央おじさん、もう来てるかもしれないよ」「たぶん来てない」「なんで分かるの?」「この前、早く来すぎないって約束したから」「お父さんなのに約束いっぱいあるね」 紗良はコーヒーカップを持つ手を止めた。「そうだね」「普通のお父さんも?」「家族には約束って必要だよ」「悠真先生も結衣ちゃんと約束する?」「すると思う」「お母さんと僕も?」「毎日してるでしょう。夜九時には寝るとか、お菓子はご飯の前に食べないとか」「それは約束じゃなくてルール」「都合のいいところだけ分類しないで」 陽向は笑った。 父親が玲央だと分かってから、一週間。 生活が劇的に変わったわけではなかった。 玲央から陽向へ直接連絡することはない。陽向が会いたいと言ったときだけ紗良を通すという約束を、今のところ守っている。 美佐子にも何も伝えていない。 会社にも。 その事実が、紗良の警戒心を少しずつ緩めていた。 全部ではない。 でも、ゼロでもない。
第24話 元夫だから何ですか 日曜日の夜、陽向は布団へ入ってからも、なかなか眠ろうとしなかった。「お母さん」「なに?」「玲央おじさん、次いつ会う?」 枕元の灯りを消そうとしていた紗良の手が止まる。「今日会ったばっかりでしょう」「だから次」「そんなすぐ決めるものなの?」「約束しないの?」「約束っていうか……」 紗良はベッドの端へ腰を下ろした。 陽向は毛布から顔だけを出している。「また会いたい?」「うん」「本当に?」「なんで何回も聞くの?」「大事だから」「会いたくなかったら言うよ」 確かに。 陽向はそのあたりを妙に遠慮する子ではない。「何したいの?」「公園」「今日行ったよ」「違う公園」「公園なら何でもいいの?」「電車見えるところ」「ああ、あそこね」 少し離れた河川敷近くに、線路を見下ろせる公園がある。 陽向の好きな場所だ。「玲央おじさん、電車知ってるかな」「恐竜よりは知ってるんじゃない?」「ほんと?」「たぶん」「じゃあ聞く」 もう次に会う前提になっている。 紗良は少しだけ複雑な気持ちになった。 嬉しくないわけではない。 玲央が父親だと知ったことで陽向が拒絶しなかったことには、正直ほっとしている。 けれど同時に
第23話 陽向は僕の家族でもあります 恐竜パンケーキが運ばれてきたとき、四人の間にあった微妙な緊張は、ほんの少しだけ形を変えた。 皿の中央には、どう見てもティラノサウルスには見えない緑色のパンケーキが置かれている。店側としては恐竜らしさを出すためなのだろうが、背中に三角形のクッキーが何枚も刺さっているせいで、むしろステゴサウルスに近かった。「これ、ティラノじゃないね」 陽向が真剣な顔で言った。「メニューには恐竜ってしか書いてないよ」 悠真がメニュー表を指差す。「じゃあ何?」「何だろうな」 玲央まで皿を覗き込む。「ステゴサウルスっぽい」「おじさん分かるようになったじゃん!」「勉強した」「すごい」「この程度で褒められると複雑だな」 紗良は思わず笑った。 つい数週間前まで、玲央が恐竜の種類を調べている未来など想像もしなかった。 陽向はナイフを持とうとして、すぐ紗良に止められる。「お母さん切って」「はいはい」「頭からはやめて」「どう切っても最終的には食べるんだけど」「そういう問題じゃない」「大事なんだね」 悠真が笑う。 紗良が胴体の部分から小さく切り分けると、陽向は満足そうに頷いた。「おじさんも一口」「約束だったな」 玲央は観念したようにフォークを取った。「悠真先生も」「僕も?」「同じテーブルなんだから」 陽向の中では、そこにいる人間は全員参加らしい。 悠真も断らず、小さく切った一
第22話 この人が久世先生 日曜日の朝、紗良はいつもより少しだけ早く目を覚ました。 カーテンの隙間から入る光は柔らかく、キッチンへ立つと、まだ冷えた床の感触が足裏へ伝わってくる。冷蔵庫を開け、卵と牛乳を取り出したところで、今日は何を作るつもりだったのか一瞬分からなくなった。 昨日、陽向と約束した。 父親が誰なのか、今日きちんと話す。 たったそれだけのことなのに、契約金額が何千万も動くプレゼンより緊張している自分がおかしかった。「フレンチトーストにしよう……」 陽向の好きなものを作れば話しやすくなるかもしれない、などと考えたところで、それでは子どもを食べ物で釣っているみたいだと思い直す。 けれど結局、フレンチトーストを焼いた。 母親というものは、ときどき自分でも理屈の分からないことをする。「いい匂い」 寝室から、髪をあちこちに跳ねさせた陽向が出てきた。「おはよう。顔洗っておいで」「今日フレンチトースト?」「そうだよ」「なんで?」「日曜日だから」「昨日の日曜日じゃない日は普通のパンだった」「細かいこと気にしない」「お父さんの話するから?」 いきなり核心へ来た。 紗良はフライ返しを持ったまま振り向く。「……覚えてたんだ」「約束したじゃん」「そうだね」「お母さん忘れた?」「忘れてないよ」「じゃあ食べたら?」「食べてから話そう」「今じゃだめ?」「焦げるから」 陽向はフライパン